歴史を捏造(Whitewash)するものは誰か?


フリーペーパーCheersブログ記事(2016年9月6日)


AJCNとして慰安婦像問題に取り組み始めてもう2年半になる。その間、歴史の真実とは何かについて考えさせられる事ばかりであった。日本人は歴史に関する議論が下手だ。議論が下手というよりも、議論の前提となる史実について勉強し、調べて自分の認識のベースを作ることを怠っている。それはおそらく、戦後教育において、特に日本の近代史を否定的に捉える風潮が強かったせいもあるのだろう。歴史認識について自分の意見を人前で述べることができない。そのため中国人や韓国人にいいように言いくるめられるシーンを何度も見てきた。歴史は人が書いたものだ。実際に何が起こったかはそれを書き記した記録や叙述によってはじめて確認できるのである。そしてそれは虚偽のものであるかもしれず、意図的に捏造されたものかもしれない。それらが時の進行に伴い、新たな史実の発掘によって覆され、歴史が書き換えられ、改訂されていく、その繰り返しだ。常に歴史認識は見直され(Re-examine) され、再確認(Revalidate) されていく。そんな事例を今回ご紹介する。


あの吉田清治の長男(66歳)が衝撃告白


 慰安婦問題で、衝撃的なリポートが月刊誌「新潮45」9月号で発表された。ご存知の通り、朝日新聞は、「慰安婦を強制連行した」という吉田清治氏の虚偽証言を30年以上も放置し、日本と日本人の名誉と尊厳を傷付けたが、ジャーナリストの大高未貴氏が、吉田氏の長男のインタビューに成功した。 この長男は「父は大変誤った歴史を作り出した」「世界中の慰安婦像をクレーン車で撤去したい」などと激白した。
AJCNの山岡代表は大高氏と面談し、この記事含まれていない情報もいくつか入手した。



大高氏は十数年前から、日本軍による強制連行説を世界に広めた「吉田清治」という人物に興味を持っていた。週刊朝日は日韓基本条約の直前1963年に吉田雄兎または東司 (ペンネーム吉田清治)の、朝鮮人労務者調達の経験に関する手記を掲載し、これが強制連行のストーリーの下書きとなった。日韓基本条約が締結された1965年、朴慶植(パク・キョンシク)が『朝鮮人強制連行の記録』(未來社)刊行したが、この朴と吉田が長い付き合いであったことを長男が明かした。プロパガンダ共鳴現象の始まりである。1983年、済州島で200人の女性を拉致したと証言する『私の戦争犯罪』が発刊された。 吉田証言については、現代史家の秦郁彦氏が、吉田氏が慰安婦狩りの舞台になったと証言した韓国・済州(チェジュ)島で現地調査を行い、1992年に産経新聞でその「虚偽性」を指摘している。吉田氏も1996年に週刊新潮の取材に「創作話」であったことを認めているが、吉田氏の連行した人数は最終的には「多くて3000人の朝鮮人女性の強制連行をした」と報道 される始末であった。(1992年赤旗)

 安倍晋三首相も、自民党青年局長時代の19997年5月27日、衆院決算委員会第二分科会で「そもそも、この『従軍慰安婦』につきましては、吉田清治なる詐欺師に近い人物が~」と指摘し、首相就任後の2007年3月5日、参院予算委員会でも「(吉田)証言はまったく、後にでっち上げだったことが分かったわけでございます」と答弁している。

 一連の批判に耐えきれず、朝日新聞は2014年8月になって、ようやく吉田証言を虚偽と判断し、16本の記事を撤回した。
 本来ならここで終わる話だ。ところが、奇妙なことに吉田証言は生き続け、世界各国に次々と設置される慰安婦像の説明文に憑依して、国際社会で現在もなお増殖している。
吉田証言を重要な証拠として採用し、国連人権委員会で日本への非難勧告を行ったクマラスワミ報告も、外務省の申し入れにも関わらず、いまだに撤回されていない。

 だが、このプロパガンダを行った「吉田清治」という人物の来歴は、謎に包まれたままだった。生年も出生地も定かではなく、学歴も経歴も不明だ。そして、名前はいくつもある。吉田が23歳の時、朝鮮人(当時19歳)を、何故か養子にもしている。一体、「吉田清治」とは何者だったのか?

関東北部の県で、質素な一人暮らしをしていた長男は、取材で、以下のように語った。

● 「父が犯した慰安婦強制連行の捏造について、吉田家の長男として、日本の皆様に本当に申し訳なく思っております。できることなら、クレーン車で世界中の慰安婦像を撤去したい…」

● 「父の責任は重大ですが、一方で、あれだけの創作話を父1人でできるはずがありません。慰安婦問題を既成事実化したい人々の何らかの関与があったはずです」

● 「父は済州島なんか行っていません。家で地図を広げながら原稿を書いていました」「1983年謝罪行脚のため訪韓した際、父のパスポートに入出国スタンプは押されていませんでした。なぜなら韓国政府が関与していて、税関を通過しなかったからです」 

● 「1983年に天安市に私費で建てた謝罪碑の除幕式に出席するために訪韓し、サハリン残留韓国人の遺家族であるとされる人物の前で土下座したが、碑を作る金など吉田家にはなかった。別の誰かが出したのだろう」

● 朝日新聞は、吉田氏の戦後の経歴を「サラリーマン」などと報じていたが、吉田氏は人生の大半は定職につかず、その生活費は息子たちが賄っていたという。著作、講演活動を繰り広げながら満足にお金を得ることもなく、生活は常に困窮していた。大金が入ると子供たちに「今までの5倍の家賃のところに引っ越す予定だ」と言ったが実現しなかった。吉田氏は一体、誰のために、何のために活動してきたのか?

 その謎を解くカギの1つは、吉田家と家族ぐるみで長期にわたって付き合いがあった、神奈川県警の元刑事A氏の証言。吉田氏は「朝鮮半島のある組織 (南)にお金を借りていた」というのだ。吉田氏の韓国謝罪行脚をテレビで見ていたA氏は「正直なところ、可哀そうだなと思いました。(略)痩せちゃっているし、おびえている姿そのものでしたよ…」と当時の印象を語っている。山岡代表は大高氏から南ばかりでなく北の組織とも吉田清治は接触していたと聞いた。また日本人の中にも吉田の活動に協力した人間がいるらしい。

 出身地は福岡県。門司市立商業学校(当時)の卒業生名簿には「吉田雄兎」の名前があるが、卒業生名簿には「死亡」と記されている。「背乗り」(はいのり:工作員が他国人の身分、戸籍を乗っ取る行為。警察用語)の可能性も取りざたされている。誰よりも吉田氏を知る長男の告白は、ジワジワと謎に包まれた吉田清治という男と、慰安婦問題の虚構の化けの皮を剥がしてゆくこととなろう。そして歴史はまた見直されていく。